
現在の期間限定展示

「楼蘭の月」
平山郁夫
リトグラフ
晩年の平山郁夫はシルクロードの砂漠を往来するラクダのキャラバンを描く「大シルクロード・シリーズ」を相次いで発表した。それは画家が終生、描き続けてきたシルクロード絵画の集大成ともいうべき連作であった。シリーズでは群青色とオレンジ色を基調とした作品が対になり、夜と朝、月と太陽、東と西が対比されている。駱駝のキャラバンは、楼蘭、アフガニスタン、インドのジャイサルメール、シリアのパルミラ遺跡を背景に東から西へと進んでいく。隊商の向かう先には、ユーラシア大陸の果て、トルコ、エフェソスそして、シルクロードの終着地点、ローマがある。
平山郁夫はこのシリーズを当館のオープンのころから描き始め、亡くなる2009年の最後の院展まで描き続け、その総数は12点、2階の大展示室に展示されている(展示作品は順次入替)。
(平山郁夫シルクロード美術館HP 所蔵コレクション 平山郁夫絵画作品「楼蘭遺跡を行く・月」 解説より)


加山又造
「裸婦 素描」
素描画
加山又造の描く主な主題の1つに裸婦が挙げられる。
もともと日本画において裸婦を描く習慣はほとんどなく、江戸期の浮世絵版画や近代日本画において作品内に裸婦が描かれることはあっても入浴や化粧、授乳など日常的な一場面を切り取ったものであった。女性の肉体そのものを正面切って描いた作品はほとんど無く、そのため、日本画の主題としては珍しかった裸婦像を描いた加山の作品は話題となった。加山の描く裸婦像は性や日常とは隔離され、透明感や輝きに満ちたある種、美の概念的な存在として描かれているように感じる。
加山は裸婦について、「私にとって、この、『裸婦』は、現実の人間ではなく、また女でもなく、それを超えた、1つの、美の『存在』になる。」と語っている。
裸婦の美しい線を自分の画面に造ってみたい、そう思い続けながら、こつこつ描き続けている。
しかし、まぶしくなるほど、美しい裸の線は、なかなか私の自由にはなってくれない。
あるときは刃のようにかたく強靭に、又、編布のようにつややかに、微風のようにひそかに、ゆれ、流れ、続く線を遣い求めながら、心のえぐられるような、女人の不思議さを感じる。
それは本当に、恐怖を感じさせる程すさまじくエゴイスティックで、あるいは、あわれにもの悲しく、又、あきれるほど透明で、ゆたかでおおらかに優しい。
私に、そのような、女の裸の線のきびしい秘密を見せ、わからせ、教えてくれた、数人の優しく美しいのモデルになってくださった女(ひと)。
その女(ひと)に、心からの感謝と尊敬、不思議になつかしい愛を感じる。
私は、これからも、裸のとりこになって、宙に線をひきながらさまよいつづけるのだろう。
(日本放送出版協会素描画集『裸婦百態』)
作者紹介
ひらやま いくお
日本画家 平山 郁夫
平山郁夫は1930年、瀬戸内海に浮かぶ生口島、現在の広島県尾道市に生まれた。
熱心な仏教徒の家庭で育ったことは、のちに仏教伝来の道やシルクロードを描く画業へと深く結び付いていった。15歳のとき、学徒勤労動員先で被爆し、広島の惨状を目の当たりにした体験は、平山の心に強く刻まれた。戦後、東京美術学校を卒業し、東京藝術大学で前田青邨に学んだ。被爆の後遺症に苦しむなか、三蔵法師・玄奘を描いた<仏教伝来>を制作し、画家としての重要な転機を迎える。
1966年、東京藝術大学の調査団としてトルコ・カッパドキアの壁画模写事業に参加したことを機に、シルクロードへの旅が始まった。平山にとってシルクロードは、仏教が伝わった道であり、東西文明が交わった道であり、平和への祈りを託す道でもあった。作品には文明交流への敬意と、戦争を越えた祈りが込められている。
また、文化財保護にも力を尽くし、各地の遺跡や仏教美術を未来へ伝える活動に貢献した。
1998年、文化勲章を受章。
かやま またぞう
日本画家 加山 又造
加山又造は京都市の図案家の家に生まれ、祖父も絵師という環境で育った。父の反対を押し切り1940年、京都市立美術工芸学校の絵画科に入学。卒業後は東京美術学校日本画科へ入学した。
時代は戦争末期であり、画学生も多く戦場に駆り出された。戦禍により勤労動員を経験。戦後は急逝した父に代わり家族を支えるため、ポスターや看板描きなど20種以上の仕事を掛け持ちした。この経験が、後の作品に見られる装飾的・デザイン的表現の礎となった。卒業後は山本丘人に師事する。
戦後、日本画は伝統的、国粋的なものを否定する自由解放運動の機運にさらされ、日本画滅亡論が声高に唱えられていた。そのような情勢の中で『新しい時代に対応し得る日本画を創り出そう』という決意のもと山本岳人らが「創造美術」を結成。西洋近代絵画の手法を取り入れつつ、自らの方法を模索し、新しい日本画を目指すという理念に共鳴した加山は、初期にはラスコー壁画やキュビズムなどを吸収した動物画を描いた。
その後、対象を単純化・誇張して美的に昇華する「表現の様式化(装飾化)」に傾倒。尾形光琳の「燕子花図屏風」や「紅白梅図屏風」に見られるような日本独自の装飾観を重視し、琳派風の華麗な屏風絵などを発表して「現代の琳派」と称された。1959年には横山操らとともに「轟会」を発足し、大画面を中心とした装飾的作風を確立。その探求心は終生衰えず、最晩年にはコンピュータ・グラフィックスにも挑戦し、2003年に文化勲章を受章した。